通典は倭に関する記述がある唐時代の史料です。
邪馬台国と思われる記述もあり、貴重な史料になっています。
通典とは
『通典(つてん)』は中国・唐時代の歴史家である杜佑(とゆう)が編纂した政治書です。
中国の歴史上初めて形式(典制)を整えた政書で、後の政治書の様式を確立しました。
典制は、法制度を中心に過去の王朝の法制度や改革によって生じた損益を分類・記録したものです。
9部計200巻に分かれていて、他に考証1巻があり、全201巻で構成されています。
- 食貨 12巻
- 選挙 6巻
- 職官(官吏) 22巻
- 礼(祭祀) 100巻
- 音楽 7巻
- 兵(軍法) 15巻
- 刑 8巻
- 州郡(都道府県) 14巻
- 辺防(国境防衛) 16巻
- 考証 1巻
資料データ
著者 | 杜佑 |
成立年 | 766年製作開始~801年完成 |
出典
原文を読む@维基文库 (2024.01.21 閲覧確認)
信憑性
- 記載内容の信憑性は高い
- 詳しいのは唐時代だけで、唐以前の信憑性は怪しい
『通典』は紀元前の時代から唐時代(西暦756年頃)までの内容を記述していますが、特に唐時代について詳しい史料です。
中国の歴代の法令制度の沿革発展を非常によく記録している「十通」の1つに数えられており、史料の信憑性自体は高いとされています。
特に隋・唐時代にかかわる部分については、最重要文献として扱われることもあります。
一方で、唐以前の時代の内容はあまり詳しくなく、且つ他の史料の引用・参照と思われるものが多いため、信憑性は怪しい部分があります。
内容
ここでは、倭国に関して記述している部分についてのみ抜粋・記載します。
現代語訳は現在作成中です。
暫定的に、ChatGPT先生の翻訳を掲載しています。
邊防序(目次)
又歷代史、倭國一名日本、在中國直東;
扶桑國復在倭國之東、約去中國三萬里、蓋近於日出處。(…中略…)
第一東夷上 – 序略朝鮮濊音穢馬韓辰韓弁辰百濟新羅倭夫餘蝦夷
『通典』卷第185 邊防第1 邊防序
東夷上
序略
新羅又在百濟之東南、倭又在東南、倭、烏和反。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 序略
隔越大海。夫餘在高麗之北、挹婁之南。
其倭及夫餘自後漢、百濟、新羅自魏、歷代並朝貢中國不絕。
馬韓
馬韓在西、五十有四國、其北與樂浪、南與倭接。(…中略…)
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 馬韓条
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。(…中略…)
其南界近倭、亦有文身者。
辰韓
國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。(…中略…)
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 辰韓条
男女近倭、亦文身、便步戰、兵杖與馬韓同。
弁辰
是後倭韓遂屬帶方。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 弁辰条
倭
光武中元二年
倭自後漢通焉,在帶方東南大海中,依山島為居,凡百餘國。光武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人。桓、靈間,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼道,能以妖惑眾,於是共立為王。侍婢千人,少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛。 魏明帝景初二年,司馬宣王之平公孫氏也,倭女王始遣大夫詣京都貢獻。魏以為親魏倭王,假金印紫綬。齊王正始中,卑彌呼死,立其宗女臺輿為王。魏略云:「倭人自謂太伯之後。」其後復立男王,並受中國爵命。晉武帝泰始初,遣使重譯入貢。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 倭条
宋武帝永初二年
宋武帝永初二年,倭王讚修貢職,至曾孫武,順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作蕃於外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處,東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遙百濟,裝船理舫。而句麗無道,圖欲見吞,虔劉不已,每致稽滯。臣欲練甲理兵,摧此強敵,剋靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授。」詔除武使持節、安東大將軍、倭王。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 倭条
邪馬台国
其王理邪馬臺國,或云邪摩堆。去遼東萬二千里,在百濟、新羅東南,其國界東西五月行,南北三月行,各至於海,大較在會稽、閩川之東,亦與朱崖、儋耳相近。其國土俗宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。出白珠、青玉。其山出銅,有丹。土氣溫暖,冬夏生菜茹,無牛、馬、虎、豹、羊,有薑、桂、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。出黑雉。有獸如牛,名山鼠。又有大蛇吞此獸,蛇皮堅不可斫,其上孔乍開乍閉,時或有光,射中之蛇則死。其兵有矛、楯、木弓、竹矢,或以骨為鏃。男子皆黥面文身。自謂太伯之後,衣皆橫幅結束,相連無縫。女人披髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭而著之。並以丹朱塗其身,如中國之用粉也。有城柵、屋室,父母兄弟異處,唯會同男女無別。飲食以手,而用籩豆。俗皆徒跣,以蹲踞為恭敬。人性嗜酒,多壽考。國多女,大人皆有四五妻,其餘或兩或三,女人不婬不妒。又俗不盜竊,少爭訟。其婚嫁不娶同姓,婦入夫家必先跨火,乃與夫相見。其死停喪十餘日,家人哭泣,不進酒食肉,親賓就屍歌舞為樂。有棺無槨,封土作冢。舉大事,灼骨以卜,用決吉凶。其行來渡海詣中國,常使一人不櫛沐,不食肉,不近婦人,名曰「持衰」。若在塗吉利,則共顧其財物;若有疾病、遭暴害,以為持衰不謹,便共殺之。官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。有軍尼百二十人,猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼,如里長也;十伊尼翼屬一軍尼。其王以天為兄,以日為弟。尤信巫覡。每至正月一日,必射戲飲酒,其餘節略與華同。樂有五絃琴、笛,好棋博、握槊、摴蒲之戲。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 倭条
隋文帝開皇二十年
隋文帝開皇二十年,倭王姓阿每,名多利思比孤,其國號「阿輩雞彌」,華言天兒也,遣使詣闕。其書曰,「日出處天子致書日沒處天子,無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,帝遣文林郎裴清使於倭國。渡百濟,東至一支國,又至竹斯國。又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯以東,皆附庸於倭。清將至,王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。又遣大禮歌多毗從二百餘騎郊勞。既至彼都,其王與清相見,設宴享以遣。復令使者隨清來貢方物。其國跣足,以幅布蔽其前後,椎髻無冠帶。隋煬帝時始賜衣冠,令以綵錦為冠飾,裳皆施
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 倭条 ,音饌。綴以金玉。衣服之制頗同新羅。
部分は、解析不明の文字。
大唐貞觀五年
大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至。仁表無綏遠之才,與其王爭禮,不宣朝命而還,由是遂絕。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 倭条
その他の国
又千餘里至侏儒國,人長三四尺。自侏儒東南行船行一年至裸國、黑齒國,使驛所傳,極於此矣。
倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱。武太后長安二年,遣其大臣朝臣真人貢方物。「朝臣真人」者,猶中國地官尚書也,頗讀經史,解屬文,首冠進德冠,其頂有花,分而四散,身服紫袍,以帛為腰帶,容止溫雅。朝廷異之,拜為司膳員外郎。天寶末,衛尉少卿朝衡即其國人。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 倭条
蝦夷
蝦夷國,海島中小國也。其使鬚長四尺,尤善弓矢。插箭於首,令人戴瓠而立,四十步射之,無不中者。大唐顯慶四年十月,隨倭國使人入朝。
『通典』卷第185 邊防第1 東夷上 蝦夷条
コメント(自説の発表はお控えください)