中国王朝は、周辺諸国に印綬を授けて臣下と認めていました。
その印綬の一つである金印が、福岡県で見つかっています。
基本データ
出土場所 | 福岡県福岡市東区志賀島 |
材質 | 金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他(水銀等の不純物) |
文字 | 漢委奴國王 |
制作時期 | 不明 |
制作者 | 不明 |
一辺 | 平均2.347cm |
印台の高さ | 平均0.887cm(鈕「つまみ」を除く) |
総高 | 2.236cm |
重さ | 108.729g |
体積 | 6.0625cm³ |
発見場所と経緯
金印は、福岡県の陸繋島である志賀島(しかのしま)で江戸時代に発見されたとされています。
発見経緯の詳細は不明であり、断定出来ているわけではありません。
金印発見場所の志賀島
志賀島はもともとは島でしたが、九州本土との間に徐々に砂が溜まって陸続きとなった、陸繋島と呼ばれる土地です。
昭和5年の志賀島橋竣工当時は完全な陸続きになっておらず、潮が満ちると西戸崎と志賀島の間は海に沈んでいたという記録が残っています。
橋ができて橋脚に砂が溜まりはじめたことで、現在は完全な陸続きとなっています。
よって”邪馬台国の存在した弥生時代~古墳時代”や”金印発見時の江戸時代”は完全な陸続きではなかった可能性が高いです。
満潮時だけ渡れない島だった可能性や、完全に徒歩では渡れない島だった可能性もあります。
志賀島のどこで金印が発見されたのか、発見場所は分かっていません。
島の南部と推定されて金印公園が作られている一方で、島の南西部にある叶ノ浜と推定する説もあります。
志賀島には縄文~古墳時代のものと推測される遺跡が数ヶ所ありますが、どれも国と呼べるほど大きなものではありません。
志賀島に金印を授かるほど大きな国はなく、他国が貰った金印が志賀島へ運ばれてきたとする説が有力です。
金印の発見経緯
金印は江戸時代・1784年に、百姓が志賀島で発見したと言われています。
「甚兵衛の口上書」に発見経緯が書かれていますが、原本はなく複製だけが残っているため、内容が正しいかどうかは不明です。
『甚兵衛の口上書』
金印は、1784年に百姓が志賀島の叶の崎という所で田の溝の岸を切り落としていたところ、2人がかりで動かせる大石の下で発見されました。
発見者は1人のように書かれており、大石をかなてこ(大工道具:棒状の金属)で動かしていたようです。
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚
私抱田地叶の崎と申所田境之中溝水行悪敷御坐候ニ付、先月廿三日、右之溝形ヲ仕直シ可申迚岸を切落シ居候処、小キ石段々出候内弐人持程之石有之、かな手子ニ而堀除ケ申候之処、石之間ニ光候物有之ニ付、取上水ニ而ス々キ上見候処、金之印判之様成物ニ而御坐候、私共見申タル儀モ無御坐品ニ御坐候間、私兄喜兵衛以前奉公仕居申候福岡町家之方ヘ持参リ、喜兵衛 見セ申候へハ、大切成品之由被申候ニ付、其儘直シ置候処、昨十五日庄屋殿、右之品(※)早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何レ宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
志賀島村百姓 甚兵衛 印天年四年三月十六日
津田源次郎様
御役所右甚兵衛申候通少モ相違無御坐候、右体之品掘出候ハ 不差置、速ニ可申出儀ニ御座坐候処うかと奉存、市中風説モ御坐候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御坐、奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下願、奉願上候、以上
『甚兵衛の口上書』
同村庄屋 武蔵 印
同年同月 日 組頭 吉三 印
同 勘蔵 印
津田源次郎様
御役所
※原文は以下のように縦書きのため、前の文は実際には右側に記述されています。
金印を発見した天年4年2月23日は旧暦で、新暦(西暦)に置き換えると1784年4月12日になります。
百姓・甚兵衛は「私が所有する田地」で見つかったとしていて、甚兵衛自身が作業していたとは書いていません。甚兵衛は土地の所有者で、発見者は別人という説もあります。(後述)
『志賀島小幅』『万暦家内年鑑』の訂正
博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)には「志賀島農民秀治・喜平 自叶崎掘出」との記述があります。
また、『万暦家内年鑑』(阿曇家所蔵)には、「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治、田を墾し大石ノ下ヨリ金印を掘出」とあるようです。
この頃の農民などの名前は、主に寺が管理する過去帳や名寄帳に残されています。
寛政2年(1790年)5月の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳(村方控)』(阿曇家所蔵)の全3冊のうちの中冊では、
・「孫次」を朱筆で抹消して、右側に「甚兵衛」
・「カツマ 藤十作」を抹消して、右側に「ヒロ 甚平作」(カツマは勝馬村、ヒロは弘村のこと)
といった箇所が見受けられるようですが、訂正前の文には甚兵衛の名はありません。
この田畠名寄帳は、金印が見つかった1784年から6年後の作成であるため、甚兵衛はこの間に死去した可能性もあり得ます。
『黒田新続家譜』に収録されている「斉清記」によれば、文化6年(1809年)3月8日に火災で110戸が延焼したという記述があり、志賀島の記録はここでほとんどが焼失したと言われています。
この火事は「甚兵衛火事」と呼ばれ、火元が甚兵衛だったらしく、これを機に甚兵衛は志賀島を去ったという伝承があります。
※福島県の甚兵衛火事とは別物であり、福島の人物は金印を見つけた甚兵衛と同名の別人の可能性が高いです。
『志賀島小幅』『万暦家内年鑑』『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳(村方控)』の3冊は、金印研究の第一人者である大谷光男氏の論文や講演などが出典であり、大谷氏が調べた結果として公表されています。
それぞれ鍋島家・阿曇家の所蔵品であり、基本的に一般公開はされていない模様です。
そのため、本当にそうした記述があるのか(大谷氏の誤記・誤読等の可能性を含)という信憑性をネット上では担保できません。
当サイト管理人は、2024.01.16時点でこれらの原文を読めておらず、ネット上の出展不明の数記事を元に当記事を執筆しており、原文内容と相違ないという証拠を確認できていません。
金印発見時の関係者
- 百姓・甚兵衛
- 甚兵衛の兄・喜兵衛
- 福岡町家衆・米屋才蔵
- 郡奉行・津田源次郎
- 庄屋・長谷川武蔵
- 組頭・吉三と勘蔵
- 農民・秀治(口上書には登場しない)
口上書に登場する7人のうち、発見者の甚兵衛と兄の喜兵衛の実在は確認されていません。
田畑の所有者を記した「田畑名寄帳」などに甚兵衛の名はありません。
他の5人や口上書に出てこない秀治は、寺の過去帳などで実在が確認されているようです。
(実在確認できているらしいですが、当サイト管理人は2024.01.16時点で証拠を確認できていません)
志賀島村の臨済宗東福寺派蓮台山荘厳寺の岡方過去帳には、秀治・甚平の名はあるが、甚兵衛の記録は無いようです。
以下執筆中…
金印の寸法
時代 | 周~前漢 | 新・後漢 | 魏 | 隋 | 唐 |
---|---|---|---|---|---|
分(cm) | – | 0.2304 | 0.2412 | 0.2951 | 0.311 |
寸(cm) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
尺(cm) | 22.5 | 23.04 | 24.12 | 29.51 | 31.1 |
丈(m) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
歩(m) | 1.35 | 6尺 1.3824 | 6尺 1.4472 | 6尺 1.7706 | 5尺 1.555 |
里(m) | 405 | 300歩 414.72 | 300歩 434.16 | 300歩 531.18 | 360歩 559.8 |
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