古代中国の史料によれば、倭人(かつての日本人)は入れ墨をする文化があったようです。
倭人の入れ墨文化について考察しました。
入れ墨文化についての記述
魏志倭人伝をはじめ、いくつかの史料によれば、倭人(かつての日本人)は入れ墨をする文化があったようです。
史料を比較してみよう!
史料によって、微妙に記述内容が異なっています。
どの記述が正しいのか(あるいは全部間違いか)をよく検討する必要があります。
史料 | 史料成立年代 | 内容 |
---|---|---|
魏志倭人伝(紹興本) | 紹興本・紹煕本共に1100年代 (魏志は280~297年) | 男子無大小皆黥面文身 |
魏志倭人伝(紹煕本) | 男子無大小皆黥面丈身 | |
翰苑(魏略からの引用) | 660年以前 (魏略は260年頃) | 其俗男子皆點而文 |
黥:入れ墨のこと。特に、古代中国では罪人の顔に墨を入れる刑を指した。
點:点という字の旧字。小さな印、(濁点や句読点などの)文字につける符号、という意味。
文身:針や刃物などで体に傷をつけ、墨汁や朱などの色素を塗りこんで文字や絵を描きこむこと。入れ墨というより彫り物に近いニュアンス。
古代の日本では、男は身分・年齢問わず誰もが顔に入れ墨をし、体に絵(模様)を描いていた。
魏志倭人伝
男子無大小皆黥面文身。自古以来、其使詣中国、皆自称大夫。
三国志 魏書 巻三十 東夷伝
夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
魏志倭人伝は大きく2種類、紹煕本(最善本)と紹興本があります。
紹煕本では「黥面丈身」、紹興本では「黥面文身」、と書かれています。
”文身”が正しく”丈”は誤記だとする説が一般的です。
翰苑(魏略からの引用)
其俗男子皆點而文聞其舊語 自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於會稽 断髪文身 以避蛟龍之吾 今倭人亦文身 以厭水害也
『翰苑』巻30 蕃夷部
魏志倭人伝では「黥面文身」となっている部分が、「點而文」となっています。
一般的には、點は黥の誤写、而は面の誤写、身が無いのは脱字と考えられています。
現代にも残る四字熟語「断髪文身」
歴史的史料とは異なりますが、現代でも国語辞典などで調べると「断髪文身」という四字熟語が記載されています。(もちろん収録されていない本もありますが・・・)
意味は”野蛮な習慣のこと”で、”古代中国で野蛮とされていた呉越の一帯の風習”のような補足がついていることが多いようです。
古代中国の入れ墨文化
夏王朝の第6代帝である少康には、入れ墨に関するエピソードがあります。
そこから、古代中国の入れ墨文化を考察してみます。
夏王朝とは?
夏王朝は、紀元前2070年頃~紀元前1600年頃に中国で栄えたとされる、史書に記された最古の王朝です。
伝説的な王朝であり、文字史料が見つかっていないことから現状実在は認められていませんが、二里頭遺跡を中心として実在を示す証拠となりそうな遺跡は発見されており、研究が進められています。
二里頭遺跡の場所 ↓
夏王朝の第6代帝・少康とその子・無余
禹以下六世而得帝少康
『呉越春秋』越王無余外伝 第6
少康恐禹祭之絶祀 乃封其庶子於越 號曰無余
その夏王朝の創始者である禹(う)の墓が会稽にあり、この祭祀のために夏王朝の第6代帝の少康は子の無余を会稽に封じました。
”会稽”は、越国の領域内にある会稽山のことでどの学者もほぼ一致した意見となっています。
また”封じる”とは一般的に、土地を与えてその地の王に任命することと解釈されます。
越王勾践
其先禹之苗裔 而夏后帝少康之庶子也
封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷發 披草萊而邑焉孫守真按:華夏蓄髮,身體髮膚……,故以為異也。今俗均斷髮矣。
『史記』越王勾践世家 第11
『史記』越王勾践世家 第11の原文 ↓
『史記』によれば、無余は入れ墨と断髪をして、会稽の荒れ地を開拓して国を興したとされています。
さらにその無余は、越の第3代王である勾践の祖先であるとしています。
蛟竜(蛟龍)の害
中国では蛟竜(蛟龍)という龍の幼生が伝説の生き物として語られています。
蛟竜はいずれドラゴンのような飛べる姿に変わるという記述が『述異記』にあり、「水にすむ虺は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で應龍となる」と記されているようです。
「蛟龍は水居」し(『淮南子』原道訓))、「蛟龍は水を得てこそ」神の力を顕現させ(『管子』形勢篇)、すなわち「蛟龍は水蟲の神」である(『管子』形勢解)とされていて、水を住処としているようです。
「池の魚数が3600匹に増えると、蛟が龍(ボス)となり、子分の魚たちを連れて飛び去ってしまう(『説文解字』)」という伝説も残っています。
其君禹後帝少康之庶子云封於會稽文身斷髮以避蛟龍之害
『漢書』巻28『地理志』「粤地」
『漢書』によれば、少康の子が文身断髪した理由は蛟竜の害を避けるためとされています。
結局、古代中国の入れ墨文化って?
古代中国で入れ墨した理由は、蛟竜の害(魚がいなくなる被害)を避けるため?
倭人の入れ墨文化
『翰苑』巻30所引『魏略』逸文や『魏志倭人伝』によれば、倭人が入れ墨を彫っているのは大魚や水鳥の害を防ぐためであるとしており、少康の子である無余の故事が引き合いに出されています。
以下作成中…
夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害
『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
後稊以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
【原文】
分身點面猶稱太伯之苗【注釈】
『翰苑』巻30 蕃夷部
魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不屬女王也 自帶方至女國万二千餘里 其俗男子皆點而文聞其舊語 自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於會稽 断髪文身 以避蛟龍之吾 今倭人亦文身 以厭水害也
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