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【畿内説】「卑弥呼 = 神功皇后/奈良県桜井市」説 ~舎人親王~

【畿内説】「卑弥呼 = 神功皇后/奈良県桜井市」説 ~舎人親王~

舎人親王は、『日本書紀』の中で「卑弥呼と神功皇后が同一人物」とする記述を認めています。
残念ながら、邪馬台国の場所については明記がありませんが、後年の研究により畿内説と考えられています。

目次

舎人親王と日本書紀の関係

舎人親王(とねりしんのう)は、676~735年の皇族です。
第40代天皇である天武天皇の第六皇子にあたる人物です。
『日本書紀』編修事業の総裁を務めています。

舎人親王像模本
舎人親王像模本

日本書紀は構成などで一貫性に欠ける部分があり、複数人で編纂されたと見られています。
舎人親王はあくまで編集責任者的な立ち位置であり、自身が日本書紀を記述している可能性は低いです。(日本書紀の一部は舎人親王自身が記述したとする説もあります。)

しかも、日本書紀の編纂の総責任者は、当時の最大権力者である藤原不比等である可能性が高いとされます。
藤原不比等は持統天皇に仕えており、大雑把な括りでは舎人親王とは敵対関係に当たります。

よって、藤原不比等と舎人親王それぞれの立場での記述が、日本書紀にどの程度影響しているのかを紐解くことが難しい状況です。
学者間で大いに議論されている部分です。

『日本書紀』を巡る関係図。舎人親王と藤原不比等は、大雑把な括りでは対立関係にある。
『日本書紀』を巡る関係性

「卑弥呼 = 神功皇后」説~日本書紀の内容から読み解く~

『日本書紀』の第九巻「氣長足姬尊 神功皇后」では、神功皇后という日本最初の女王の年紀が記述されています。
そこには、魏志から”女王が魏に朝貢して来た”旨を引用しています。
つまり、日本書紀の編纂責任者である舎人親王は、魏志でいう女王(= 卑弥呼)は神功皇后のことであると匂わせています。

ただし、舎人親王は立場的に「神功皇后の欄に魏志の朝貢の話を載せて良いよ」と認めただけです。
先述の通り舎人親王はあくまで編纂の責任者の立ち位置でありつつ、藤原不比等より下の立場でもあります。
卑弥呼 = 神功皇后という匂わせを指示した人物は、藤原不比等なのか、編纂を任せた部下なのか、舎人親王自身か、といった部分は議論する必要があります。

神功皇后39年

神功皇后の39年目の話にて、魏志が引用される。
なお、景初三年は西暦239年に当たる。よって、神功皇后の元年は西暦201年に当たる。

卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

※「卅」という漢字は30を表す。十が3つ(十十十)という意味。「卌」も同じく40を表す。

魏志では女王と記載されており、日本書紀でも女性(神功皇后)がトップであるとしていて整合性があります。

魏志では景初三年ではなく、景初二年となっています。

神功皇后40年

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

神功皇后43年

卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

魏志では景初まで女王だった登場人物が、正始に入ると倭王に変わっています。
神功皇后であれば女王のままだったのでは?

神功皇后66年

魏志からの引用の他に、晋時代の起居注を引用した一文もあります。

六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

そもそも「起居注」とは、中国の皇帝の側近が、皇帝の日常(起居・言動)を記述した日記のようなものです。
晋時代の起居注は20種類以上あったとされますが、どれも散佚しており原書を確認することは出来ません。

起居注は定期的(月ごと、四季ごとなど諸説あり)にまとめられて、史官という役職に渡されます。
史官は起居注を基にして歴史書を記述していました。
つまり、歴史書が完成すれば起居注は用無しになります。
これが歴史書に比べ、起居注が圧倒的に散佚している数が多い理由です。

晋時代の起居注を当時の日本が入手できていたのか?

果たして、歴史書が完成すれば用無しとなるうえにそこそこ重要な史料である起居注を、異国の日本が入手できたのでしょうか?
晋国は265~420年の国であり、晋のことをまとめた歴史書『晋書』は648年に成立しています。
諸説ありますが、日本書紀は681年から編纂開始とされており、晋書の閲覧は年代的には十分可能ではあります。

メモ

「晋の起居注」自体は間違いなく中国国内に存在はしていました。
しかし、ここで登場する「晋の起居注」はでっち上げであるという説もあります。

注意点

晋書は内容が悪く、デマや誤報が多いと言われています。
晋書が成立して間もない661~721年の歴史家・劉知幾をはじめ、当時から現代まで多数の歴史家に酷評されています。
そのため、あえて晋書ではなく起居注を参照した可能性もあり得ます。


晋書には、「泰初」ではなく「泰始」、「十月」ではなく「十一月」、「倭女王」ではなく「倭人」と、起居注とは異なる記述がいくつもあります。
晋書が間違って記述したとする説もありますが、晋の元号は泰始が正しいため、晋書の内容が正しいとする見方が一般的です。

泰始元年・・・(中略)・・・二年春正月丙戌・・・(中略)・・・

十一月己卯、倭人來獻方物。

『晋書』巻003 武帝紀

晋に朝貢した人物は誰?

先述の通り、神功皇后の元年は西暦201年に当たります。
したがって、神功皇后66年は西暦266年になります。
しかし、梁書の記述では卑弥呼は中国の元号で言う正始中に亡くなっているはずです。

正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命

『梁書』卷第54「列傳」第48 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
中国元号西暦神功皇后
景初237~239年37~39年
正始240~249年40~49年
泰始265~274年65年以降
中国の元号と神功皇后年間の対応表

通説では、正始中に卑弥呼が亡くなったため、晋に朝貢したのは卑弥呼の後を継いだ臺輿、または男王となります。
一方で、「卑弥呼 = 神功皇后」説では、この帳尻合わせが必要になります。
残念ながらこの帳尻合わせについて、日本書紀に記述がありません。

「卑弥呼 = 神功皇后」説~日本書紀以降の追加解釈~

日本書紀には記載がないですが、後年に「卑弥呼 = 神功皇后」説を補強する解釈がいくつか登場します。

神功皇后の境遇は、魏志倭人伝の卑弥呼の説明に近い

魏志倭人伝の卑弥呼の説明の多くは、神功皇后の境遇に近いと解釈できます。

卑弥呼について

其国本亦以男子為王。
住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。
乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
年已長大無夫婿、有男弟佐治国。自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

【住七八十年倭国乱相攻伐歴年】倭国大乱が無い

神功皇后時代(西暦201~269年頃)の前の70~80年は、13代・成務天皇時代(西暦131~190年)です。
この間はとくに大乱と呼べる戦争が起こった事実は見つかっていません。

ただし、成務天皇は考古学的に実在の証拠はなく、各史料から考えても実在した可能性が低いとされています。
先帝の子でない初の天皇とされる14代・仲哀天皇を正当化するべく、でっち上げた天皇である可能性が高いです。
そのため、西暦131~190年の日本のことは記録に残っておらず、本当は大乱状態だった可能性は十分あり得ます。

【乃共立一女子為王】戦争後に摂政となる

神功皇后の夫である仲哀天皇は、熊襲と戦争中に崩御しています。(西暦200年とされています)
神功皇后は、西暦200年に後の応神天皇を妊娠したまま朝鮮半島に戦争を仕掛けて勝利しています。

西暦200年12月、神功皇后は朝鮮半島から都に帰るまでに、応神天皇を出産しました。
西暦201年、仲哀天皇の子である麛坂・忍熊王子兄弟は、応神天皇を天皇にしようとしていることを悟って、神功皇后と戦争しています。
麛坂・忍熊王子兄弟に勝利した神功皇后は、摂政(皇太后)として実験を握ることになります。

「戦争後に摂政となる」という状況は、倭国大乱後に王となった卑弥呼の境遇に似ています。

【事鬼道能惑衆】神功皇后は神託ができる

神功皇后は熊襲征伐(仲哀天皇8年)に神託を行っています。
託宣の内容は「熊襲を攻めても意味はなく、海を渡って金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものでした。
しかし仲哀天皇は託宣を信じずに熊襲を攻めた挙句敗走し、翌年に急死します。

また、仲哀天皇の死後に、武内宿禰を審神者として再び神託を行っている。

これは鬼道のことを指していると考えることができます。

【年已長大無夫婿】神功皇后が摂政として君臨している間は年長者であり独身

神功皇后は仲哀天皇の皇后であるため、一度結婚はしていることになりますが、仲哀天皇が崩御後は再婚せず独身でです。

また、神功皇后は西暦170年頃の生まれとされており、摂政になった西暦201年は30歳前後です。
魏志にて女王が朝貢したとする年は、西暦239~243年で70歳前後と推測され、女王期間は年長者であると言えます。

【年已長大無夫婿】神功皇后が摂政として君臨している間は年長者であり独身

卑弥呼には弟がいたとされ、神功皇后には息長日子王という弟がいます。

【唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処】神功皇后には武内宿禰という補佐役がいた

武内宿禰は12~16代天皇に仕えていますが、神功皇后関連では以下のようなエピソードがあります。
・仲哀天皇が遠征途上で死去すると、神功皇后と武内宿禰とは天皇の喪を秘した。
・反乱を起こした麛坂・忍熊皇子兄弟に対して、武内宿禰は後の応神天皇を抱いて出た。
・神功皇后が誰を朝鮮への使者にすべきか天神に問うたところ、天神は武内宿禰をして議を行うよう答えた。

他にもエピソードは複数あり、武内宿禰は神功皇后を補佐していたと言えます。
また、弟ではなく、”唯有男子一人”という表記になっている理由にもなります。

一大率について

自女王国以北、特置一大率、檢察諸国。

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

一大率を”いわれ”と読めば説明がつきますが、一大率を”いわれ”と読むのはやや強引な印象です。

神功皇后の宮(皇居)は磐余若桜宮(いわれのわかざくらのみや)と呼ばれます。
この説では、魏志倭人伝に登場する一大率を”いわれ”と読ませます。
一大率は役職名説、人物名説など解釈が様々ありますが、ここでは磐余(いわれ)から来た人物と考えます。

ただし、一大率を”いわれ”と読めるかは少々疑問です。
当時の中国や日本での「一大率」をどう発音するかは不明ですが、現在の中国語では以下のようになります。
音韻:Yī dà lǜ

現在の中国語での「一大率」の発音(Yī dà lǜ)

邪馬台国の比定地~奈良県桜井市説~

神功皇后の宮は磐余若桜宮と呼ばれ、現在の奈良県桜井市にあったとされています。
奈良県桜井市にある稚桜神社は、神功皇后と17代・履中天皇を祭神としています。

ここまでの内容を総合して、邪馬台国は磐余若桜宮のあった現在の奈良県桜井市とする説になります。

奈良県の比定地については、いわゆる畿内説がより詳しいため、ここでの批評は省略します。

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