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魏志倭人伝

魏志倭人伝

2~3世紀頃の日本は文字で記録を残す習慣がありません。
つまり、その頃の日本を知るには基本的に遺跡からの出土品に頼ることになります。

しかし中国は紀元前から、文字で記録を残す文化がありました。
そんな中国の歴史書である『魏志倭人伝』には、2~3世紀頃の日本に関する記述があります。
そのため魏志倭人伝は、当時の日本を知ることができる貴重な文献資料です。

この記事では、魏志倭人伝の原文と現代語訳を掲載しつつ、いろいろな解釈説も併せて紹介します。

目次

魏志倭人伝とは

勘違いしている人が多くいるのですが、実は『魏志倭人伝』という本は存在しません。
『魏志』という本の一部分のことを指しています。

魏志倭人伝の倭に関する原文
魏志倭人伝の倭に関する原文
魏志倭人伝とは?

全3志(65巻)で構成される中国の歴史書『三国志』中の
「魏志」の第30巻である
烏丸鮮卑東夷伝の中の
倭人についての章のこと

そもそも『三国志』とは、2~3世紀(184~280年とされるが諸説あり)の中国のことを記述した歴史書です。
当時の中国は魏・呉・蜀の三国に分かれており、『三国志』はそれぞれの国について『魏志』『呉志』『蜀志』と独立して編纂されています。

『三国志』における倭の位置付け
『三国志』における倭の位置付け

魏国のことを記述した『魏志』全30巻の最終巻「烏丸鮮卑東夷伝」には、中国の東方に住んでいる諸民族の情報が記載されています。
その諸民族の中に倭人傳という章があり、そこに倭人(日本人のこと)とその国についての記述があります。

この倭人傳を、一般に「魏志倭人伝」と呼んでいます。

「烏丸鮮卑東夷伝」の読み方

一般的には ”うがんせんとういでん” または ”うがんせんとういでん” と読みます。

資料データ

著者陳寿
成立年不明(一般的には280~297年とされる)

355年に編纂された中国の歴史書『華陽国志』の陳寿伝の内容から、呉国が晋国に降伏した280年以降の成立が有力です。陳寿は297年没と言われていますが、諸説あります。
よって『魏志倭人伝』は、一般的に280~297年の成立と考えられています。

「呉平後、寿乃鳩合三国史、著魏・呉・蜀三書六十五篇、号『三国志』」


呉が滅んだ後に(陳)寿が三国志を著した。

『華陽国志』巻11・後賢志陳寿伝

出典

あまりに古い時代の本なので、原本は今のところ見つかっていません(残っている可能性自体低い)。

原本を書写した版本はいくつか見つかっているものの、どれも細部の内容が異なっており、どれを最善本として扱うかは議論の余地があります。
また、後年に複数の史料で魏志倭人伝が引用されていますが、引用部分の内容も版本と異なっているものがあります。

版本の中で特に重要なものは、紹興本(しょうこうぼん)と紹煕本(しょうきぼん)の2点です。

紹興本

現存する最古の版本と言われ、紹興年間(1131~1162年)に作成されています。
ほぼ完全体ですが、存在すると言われている陳寿の序文(自序)だけ見つかっていません。

原文を見る@国立国会図書館

紹煕本

紹煕年間(1190~1194年)に作成されています。
内容は一部欠落しています。
ただし、倭に関する部分は欠落がないため、倭について議論する際には欠落を気にする必要がありません。
一般的には紹熙本が最善本とされます。

原文を見る@宮内庁書陵部

信憑性

総合評価
( 4.5 )
メリット
  • 全体的に過去の文献を引用・転記した部分を多々含んでいる。
  • つまり記述内容は陳寿の主観や予測ではないものが多い。
  • 記述内容の統一性が無い部分や矛盾点は、引用元の記載を保っていると解釈できる。
デメリット
  • 版本ごとに内容が異なる。
  • 陳寿が意図的に参照しなかった文献がある可能性は否定できない。
  • 人名や地名といった固有名詞の類は鵜呑みにできない。

魏を正統とするような扱いや、曲筆されたと思われる部分もありますが、概ね高評価とされています。
高評価の理由は、三国志が過去の文献を引用・転記した部分を多々含んでいるためです。
引用・転記 = 陳寿ではない人の記載 がある分、内容の客観性が高いと言えます。

信憑性に欠ける点として、現存する版本に差異があること挙げられます。
内容の差異については、「後年に加筆・修正されている部分もある」との見方もあります。
単に文字が似ているというだけでなく、書き写した人の文字の癖などもあるため、何度も書き写されているうちに誤記が発生した可能性は大いに考えられます。

豆知識

ギリシャの考古学で1970年代に激震が走った誤訳があります。

紀元前8世紀頃に栄えた古代エレトリアの文献によれば、アマリントス村にあるアルテミス神殿はエレトリアの城壁からフェニキア文字のζ(ゼータ)、つまり7スタディオンの距離だとされていました。
しかし神殿跡は長く発見されませんでした。

ところが、これはξ(クシー)、つまり60スタディオンの誤訳ではないかという説が出たのです。
その説を元に距離を再計算して捜索したところ、見事神殿跡が見つかりました。
写本家がζをξと間違えた可能性があったわけです。

ということは魏志倭人伝の版本の差異も誤記が…!?

また、不都合な事象がある等の理由から、陳寿が意図的に参照しなかった文献がある可能性は否定できません。
加えて、人名や地名といった固有名詞の類は、「当時の日本人の発音」を「当時の中国・朝鮮系の音韻」であてはめた漢字で記述されている可能性が高く、現在の日本語との一致性は怪しいです。
日本・大陸それぞれでさらに方言があることも考慮しなければなりません。

比較表

魏志倭人伝の中に登場する国の比較表。
官名や戸数から地域性が分かるかもしれない。

重要な点は、女王国から東に水行で千里ほど行くと国があること。
邪馬台国関東説など、東に国が無い箇所を比定している説もあるが、その場合は方角が間違っているなどの理由付けも必要。

・そもそも女王国と邪馬台国はイコールなのか。
・女王国から東や東南(方角や距離が間違っている可能性アリ)に行った4ヵ国の比定。
・2回登場する奴国が同一国を指すのか同名の別国なのか。

国名官名副官名戸数前の国からの距離(※)
帯方郡出発地点
狗邪韓国七千余里(水行)
対海(対馬)卑狗卑奴母離千余戸千余里(水行)
一大(一支,壱岐)卑狗卑奴母離三千許家南に千余里(水行)
末盧国四千余戸千余里(水行)
伊都国爾支泄謨觚
柄渠觚
千余戸東南に五百里(陸行)
奴国①兕馬觚卑奴母離二万余戸東南に百里
不弥国多模卑奴母離千余戸東に百里
投馬国弥弥弥弥那利五万余戸水行二十日
邪馬臺国
(邪馬壹国)
伊支馬弥馬升
弥馬獲支
奴佳鞮
七万余戸水行十日、陸行一月
?国女王国から
東に千余里(水行)
侏儒国女王国から四千里
裸国・黒歯国女王国から
東南に船行一年
狗奴国奴国の南
奴国②奴国①と同じ国?違う国?
魏志倭人伝に登場する集落の比較表

※放射説の場合、途中で起点が前の国からではなくなる

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