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会稽東治か会稽東冶か問題

会稽東治か会稽東冶か問題

邪馬台国の位置は、魏志倭人伝では「会稽東治(かいけいとうち)」、後漢書では「会稽東冶(かいけいとうや)」と記述されています。
また、翰苑では「會稽東」、隋書では「會稽之東」など、後年には治も冶もない状態で記載されています。

この記事では、【治】と【冶】はどちらが正しいのか、いろいろな説を紹介します。
どの説も一長一短があるので、自分が納得いく解釈を探してみてください。

目次

会稽東治と会稽東冶の場所

魏志倭人伝では「会稽東治」、後漢書では「会稽東冶」とする記述がある。左から『魏志(紹興本)』『魏志(紹熙本)』『後漢書』。
左から『魏志(紹興本)』『魏志(紹熙本)』『後漢書』。

魏志倭人伝の記述である【治】が正しいとすると、会稽山近くの魏が治めていた東側地域と解釈されます。

魏志倭人伝の時代(魏呉蜀の三国時代)の会稽山を含む会稽郡は呉の領域でした。
ざっくり言えば、現在の上海までが呉の領域、上海以北は魏の領域です。
ここでは分かりやすく会稽東治を上海としておきます。

後漢書の記述である【冶】が正しいとすれば、会稽郡東冶県(現在の福州市辺り)となります。

上海市と福州市は南北方向におおよそ直線距離で600kmほど離れています。
よって、【治】か【冶】かによって倭国の位置が南北方向に大きく変わってしまいます。

会稽東治と会稽東冶の違い。会稽東治は上海市(日本の鹿児島)であり、会稽東冶は福州市(日本の沖縄)である。
会稽東治と会稽東冶の違い
ポイント

魏志倭人伝のサンズイ【治】は北説(上海近辺)、後漢書のニスイ【冶】は南説(福州市近辺)

会稽東治(魏志倭人伝)が正しいとする説

東治が正しいとする説の最大根拠は、東冶の東には沖縄しかないという点です。
各種史料の真偽内容はさておいて、現実としては確かに、東冶の東には大国で且つ他と陸続きになるような場所があったとは考えにくいです。

そもそも魏志の話である

「会稽東治」という文はそもそも呉志ではなく魏志に記述があります。
つまり魏についての話をしているので、魏の領域の東に倭国があるという話であろう、と考える説です。

反論

敵である呉に東方から圧力をかけるべく、呉の東に倭国があることにした、とも考えられます。

魏志倭人伝の方が古い

魏志倭人伝は280~297年頃に成立した一方で、後漢書は432~445年頃の成立とされています。

また、魏志倭人伝の著者・陳寿は233~297年(諸説あり)の魏呉蜀の三国時代の人であり、邪馬台国の時代と一致します。
対して、後漢書の著者・范曄は398~445年の宋時代の人であり、范曄の人生の前半はいわゆる空白の4世紀とも被ります。

よって、陳寿に比べると范曄は倭や邪馬台国について詳しくないと推測できます。
魏志倭人伝の方が古いことを踏まえると、後年に後漢書が書き誤ったと考える説です。

反論

西暦400年代も倭国は東晋や宋に朝貢しており、范曄が生きていた時代も倭と中国の交流はあるはず。
范曄が倭に詳しくないと断定するには材料が薄い気がします。

後年の史料では治も冶も削除されている

7世紀(西暦600年代)を過ぎた頃になると、倭が会稽の東にあるとしながらも、治も冶も記述が無くなります。
また隋書では、倭国は会稽の東で儋耳・朱崖(現在の海南島)に近いと「昔は言っていた」と記述しています。

古云
去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東與儋耳相近

『隋書』

7世紀以降の倭・日本は畿内が中心地であることは間違いなく、遣隋使をはじめ大陸との交流が活発化します。
時代が進んで、明らかに日本の中心地が東冶の東では南すぎることに中国側が気づき、紛らわしい部分を削除した(つまり東冶の東は間違いである)と考える説です。

史料成立年記述内容
梁書629年頃會稽之東
隋書636年頃會稽之東
翰苑660年頃會稽東
諸蕃志1225年頃會稽之正東
「治」も「冶」も記述が無い後年の史料
反論

「魏志や後漢書の成立時には東冶の東と認識していたので、意図としては東冶が正しい」という可能性を否定できていません。

前の文が指している会稽は会稽山のこと

魏志倭人伝にて、会稽東治の前の文には会稽山(香炉峰)に関する話が登場します。

夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
計其道里、当在会稽東治之東。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条

詳細は入れ墨文化についての記事を参照いただきたいのですが、これは夏王朝の王である少康(生没年不明・帝としての期間は紀元前1860年~紀元前1850年頃とされる)の子供(無余という名らしい)の話です。
ざっくり言えば、会稽に封ぜられて入れ墨した少康の子(無余)ように倭人も入れ墨しているという話です。

”少康の子が封じられた”と言っている方の会稽は、越という国(紀元前600年頃~紀元前306年)の首都のことです。
会稽山(香炉峰)がある地域で、現在の中国・紹興市に当たり、「会稽の恥」という故事成語のもとになった地名でもあります。

越という国の君主の起源は、少康の子(無余)という伝説があります。
ただし、無余は紀元前1800年~紀元前1700年頃年頃の人物で、越という国は紀元前600年頃~紀元前306年に存在しました。
つまり、無余が越国を建国したわけではない(越国と無余の関係は年代に大幅なズレがある)点は注意が必要です。

会稽山の話の流れで、その東に邪馬台国があると記載しています。
言い換えれば東冶ではなく、もっと北にある会稽山付近の話をしたい訳で、会稽山付近の東側地域と解釈すべきです。
仮に邪馬台国が会稽東冶にあるならば、魏志の中でも東冶に近い儋耳・朱崖(現在の海南島)の話の流れで記載するはずと考えられます。

会稽山(香炉峰)と上海と九州の位置関係
会稽山(香炉峰)と上海と九州の位置関係

後漢書は、三国志の他の「東冶」という文字に引っ張られている

三国志には、東冶という文が最低でも5文あります。
この5文はいずれも東冶を指していて正しい内容とされていますが、後漢書はこれらの記述に引っ張られて東冶と書き誤ったとする説です。

朗自以身爲漢吏、宜保城邑、遂舉兵與策戰、敗績、浮海至東冶。

『三國志』卷13『魏志』13 王朗

策曰:「虎等羣盜、非有大志、此成禽耳。」遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。

『三國志』卷46『呉志』01 孫破虜討逆傳

【賀斉】

時王朗奔東冶、候官長商升為朗起兵。

【呂岱】

會稽東冶五縣賊呂合・秦狼等為亂、權以岱為督軍校尉、與將軍蔣欽等將兵討之、遂禽合・狼、五縣平定、拜昭信中郎將。

四年、廬陵賊李桓・路合・會稽東冶賊隨春・南海賊羅厲等一時並起。

 『三國志』卷60『呉志』15 賀全呂周鍾離傳
反論

後漢書は、七家後漢書と『東観漢記』がベースです。
三国志を参考にしているのは東夷に関するごく一部で、中国国内の話で三国志はほぼ参照されていません。
もちろん後漢書で三国志を参照する際に全文読んでいる可能性もありますが、三国志の中国国内の記述に引っ張られた説はやや無理があるかと思われます。

会稽東冶(後漢書)が正しいとする説

東冶が正しいとする説の根拠は大きく2つ。
東冶の東に大国があることで、魏は呉に対して圧力をかけられるという点。
もう一つは、当時の中国の世界観として、倭(日本)は南に向かって伸びていたと考える点です。

呉に東方から圧力をかけるべく呉の東に倭国があるとした

「会稽東治」という文は魏志に記述があります。
つまり、魏が敵である呉に東方から圧力をかけるべく、呉の東に倭国があるとした、と考える説です。

反論

魏志に記述があるということは魏についての話ですから、魏の領域の東に倭国があるという話、とも考えられます。

作成中

以下は作成中です…

誤記を後漢書が修正した

会稽東冶は地名(名詞)として成立します。
そのため意味が通じる「会稽東冶」に後漢書が意図的に修正していると考える説です。

当時の世界観として日本は南に伸びていた

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)は1402年に李氏朝鮮で作られた地図です。
2024年時点で現存するものは写本で、原本は見つかっていません。
この地図には、日本が90度回転して東南方向に伸びて描かれているものがあります。

混一疆理歴代国都之図
混一疆理歴代国都之図

現存写本は、京都府にある龍谷大学と長崎県島原市の本光寺にある2版だけです。
他に、関連図として熊本の本妙寺にある「大明国地図」、天理大学にある「大明国図」があります。

ポイント

龍谷大学図は、これまでの中国の地図のものより正確な日本の形をしている反面、向きが90度回転して描かれています。
一方で関連図を含む残り3版はいずれも日本の向きは通常であり、龍谷大学図の日本列島の角度の方が例外的です。

現本がどのように描かれていたかが分からないため、原本が間違っていて写本時に直したものなのか、原本は正しい向きだったが何か意図があって龍谷大学図だけ回転して描いたのかは不明です。

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