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難升米は何者か?

難升米は倭から魏に使者として朝貢した人物ですが謎の人物です。思兼神説、彦狭島命説、梨迹臣説、卑弥呼の前の男王説、伊都国の役人説などを考察しています。

難升米は、倭から魏に使者として朝貢した人物です。
身分は大夫とされていて、正始二年(西暦241年)、正始六年(西暦245年)、正始八年(西暦247年)の出来事で登場します。

目次

「難升米」の読み方

一般的に、「難升米」は”なしめ”と読まれることが多いですが、”なしま”と読む説もあります。
当時の日本・中国それぞれの発音に加え、方言も考慮すると、どういった発音だったかを特定するのは難しいため論争が起こっています。

「難升米」の読み方

上古音:nan-thi∂ng-me
中古音:nan(ndan) -∫I∂ng-mei(mbei)

「難升米」は現代中国語では以下のように発音されます。日本語では”なんしゅんみ”という発音に近いようです。
音韻:Nán shēng mǐ

「難升米」の現代中国語読み

日本書紀では難斗米

日本書紀では、魏志倭人伝の引用時に「難斗米」という字を使用しています。
現存する魏志倭人伝の写本は12世紀頃の完成、日本書紀は8世紀に完成と言われており、古い分日本書紀の方が正しいとする解釈もあります。

卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

『日本書紀』第9巻 氣長足姬尊 神功皇后

一般的に、「難斗米」は”なとめ”と読まれることが多いようです。

「難斗米」は現代中国語では以下のように発音される。日本語では”なんどうみ”という発音に近いようです。
音韻:Nán dǒumǐ

「難斗米」の現代中国語読み

1斗=10升の計算であるため、難斗米が正しいのか難升米が正しいのかで、若干印象が変わります。

魏志倭人伝(魏書)による列伝

魏志倭人伝に記述された内容は以下の通りです。

実は女王である卑弥呼を差し置いて、魏志倭人伝の中で倭人としては一番名前が多く出てくる人物です。
よって、使者の中でも重要な役割だったと推測されています。

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所献男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢献。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授。汝其綏撫種人、勉為孝順。汝来使難升米、牛利涉遠道路勤労。今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見労賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所献貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。皆装封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝国中人、使知国家哀汝、故鄭重賜汝好物也」。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条

其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条

其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。
遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条

難升米は何者か?

卑弥呼の前の男王説

「升」という字は”穀物が実る”という意味があり、転じて、世の中がよく治まることを意味します。
そこから「難升米」は、世の中をうまく治め難かった者を意味し、卑弥呼の前に立った男王を表してると考る説です。

この男王は卑弥呼が共立された後、卑弥呼の男弟として政治を行ったとする考えもあります。

思兼神説

日本神話に登場する、多くの思慮を兼ね備えた神・深く思慮する神である思兼神(おもいかねのかみ)とする説です。
『日本書紀』では高皇産霊尊の子とする伝承があります。
『古事記』では思金神、常世思金神という名前になっています。
『先代旧事本紀』では八意思金神、八意思兼神と書かれています。

岩戸隠れ伝説では、天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたとされる人物です。

卑弥呼の後に女王となった台与は万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)とする説がありますが、思兼神は万幡豊秋津師比売命の兄にあたります

万幡豊秋津師比売命は、天照大神の子である天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだとされています。
万幡豊秋津師比売命と天照大神の関係

彦狭島命説

”なしま”と読んで、”さしま”のことを指していると仮定して、日本書紀などに登場する彦狭島命(ひこさしまのみこと)のこととする説です。
古事記では日子寤間命(ひこさめまのみこと)という別名が紹介されています。

さらにこの説は、卑弥呼を補佐する弟 = 難升米(彦狭島命)とする説と、弟と難升米は別人説に分かれます。

梨迹臣説

なしめ、なとめ、という読み方から、近江国風土記に登場する梨迹臣(なしとみ)のこととする説です。

梨迹臣命は日本書紀・古事記(いわゆる記紀)には登場しません。
『近江国風土記』の「余呉湖の羽衣伝説」に関わる人物で、滋賀県を中心にした地域の豪族とされています。
大化の改新の中心人物である中臣鎌足などが属する、中臣一族の祖先と言われます。

九州説の場合、なぜ魏と反対方向の丹波(および滋賀)からわざわざ使者を出したのか説明が必要です。

伊都国の役人説

魏志倭人伝での「至」と「到」という字の使い分けから、魏の使者は伊都国までしか行っていないという考えがあります。
逆に、邪馬台国から魏への使者も伊都国までしか行っておらず、伊都国の役人が魏への内容を受け取っていたのではないかという考えから、難升米は伊都国の役人であるとする説です。

魏の使者 ⇔ 伊都国の役人 ⇔ 邪馬台国の使者

邪馬台国関連人物

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