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都巿牛利は何者か?

都巿牛利は、倭から魏に使者として朝貢した人物です。身分は次使(副使)とされていて、正始二年(西暦241年)の出来事で登場します。

都巿牛利は、倭から魏に使者として朝貢した人物です。
身分は次使(副使)とされていて、正始二年(西暦241年)の出来事で登場します。

目次

「都巿牛利」の読み方

「都巿牛利」という読み方を知る前に、まずはそもそも使われている漢字は何なのかを特定する必要があります。

巿か市か問題

非常に分かりにくいのですが、巿と市は違う漢字です。
巿は「ふ、ふつ、ほち、ひざかけ」と読み、市は「し、いち」と読みます。

日本語フォントでは、ほとんど見た目で区別できないほど似ていることも多くあります。
そもそも「ひざかけ」の方の字は日常でほとんど使用されないため、「いち」の方と誤用されやすい傾向があります。

MicrosoftがWindowsに中国語フォントとして標準搭載している「Microsoft Yahei」で表示すると分かりやすく、巿と市はそれぞれ下図のようになります。

フォント「Microsoft Yahei」で巿と市を表示したもの
フォント「Microsoft Yahei」で巿と市を表示したもの

つまり、「ふ」と読むか「し」と読むかで、人名が変わってしまうわけです。

「都巿牛利」の発音

先述の通り、巿と言う字が”ふ”か”し”かで読み方が変わります。
一般的には”つしごり”と読むことが多いとされますが、字が違う場合は”つふごり”と読むことになります。

「都市牛利」の読み方

上古音:tag-dhi∂g-ngIog-lIed
中古音:to-zIei-ngI∂u-lIi

「都市(し)牛利」は現代中国語では以下のように発音されます。
音韻(し):Dūshì niú lì

「都市牛利」の現代中国語読み

「都巿(ふ)牛利」は現代中国語では以下のように発音されます。
音韻(ふ):Dōu fú niú lì

「都巿牛利」の現代中国語読み

魏志倭人伝(魏書)による列伝

魏志倭人伝に記述された内容は以下の通りです。

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所献男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢献。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授。汝其綏撫種人、勉為孝順。汝来使難升米、牛利涉遠道路勤労。今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見労賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所献貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。皆装封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝国中人、使知国家哀汝、故鄭重賜汝好物也」。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条

難升米と共に、景初二年に魏へ朝貢したとされています。
特徴として、最初に都巿牛利と言う名で登場しますが、2回目以降は牛利と言う名で登場します。

魏の皇帝は、牛利を「率善校尉」に任命しています。

メモ

「率善校尉」はどういったものか正確に分かっていませんが、中国の古代の役職と考えられています。

「率善」は「率いて善くする」といった意味で、「校尉」は軍の役職や階級を指す言葉です。
したがって、「率善校尉」は、良い能力や徳を持ちながら軍の校尉(指揮官)としての職務を果たす役職や階級を指す可能性があります。

都巿牛利は何者か?

都巿牛利は卑弥呼などに比べると重要人物として扱われることが少ないためか、定説が特にありません。
現状、都巿牛利は何者なのか、という論争が起こっている状態です。

そもそも名前は「牛利」説

魏志倭人伝では、”次使都巿牛利”と一度記載があって以降、後は全て”牛利”という名で登場します。
よって、名前は牛利であり、次使都巿は「大夫の次(下)の身分の使者で都市という官名」とする説です。

都巿牛利の前に登場する人物が「大夫難升米」で、”大夫という身分の難升米”という意味とされています。
そのため、「次使都巿牛利」は”副使で都巿という身分の牛利”と解釈できるという考えです。

「大夫難升米」という記述と整合性が取れています。

都巿という身分は先にも後にも登場しないため、実在した身分かどうかは怪しいです。

フルネーム説

都巿牛利は、苗字(姓)が”都巿”で名前が”牛利”のフルネームであるとする説です。

現在、日本では都市(読み方は”といち”)という苗字の方が約100人ほどおられます。
都市性のうち、約3割に当たる30人ほどが長崎県内(松浦20人ほど、佐世保10人ほど)の方との情報があります。
参考資料:名字由来net

つまり、倭から魏に向かう途中の長崎県付近の人物が使者として出向いたとする考えです。

九州説でも畿内説でも、魏とは逆方向の地から使者を出す説もあります。
フルネーム説では、倭から魏に向かう途中の地から使者を出しているので九州説でも畿内説でも違和感ありません。

魏志倭人伝に登場する人物のほとんどは、苗字のみや役職名、あるいはそれらを合わせた名前が多いとされます。
ここだけフルネームにする理由が不明です。

由碁理説

難升米が梨迹臣命(なしとみのみこと)であるならば、都巿牛利は古事記に登場する丹波の大県主「由碁理(ゆごり、ゆきり)」であるとする説です。

梨迹臣命は日本書紀・古事記(いわゆる記紀)には登場しません。
『近江国風土記』の「余呉湖の羽衣伝説」に関わる人物で、滋賀県を中心にした地域の豪族とされています。
大化の改新の中心人物である中臣鎌足などが属する、中臣一族の祖先と言われます。

一方の由碁理は、古事記にも登場する丹波の大県主です。
『勘注系図』では建諸隅命を別名:丹波縣主由碁理命としています。
第9代開化天皇の妃となった竹野媛の父とも言われます。

「此の天皇、丹波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命」

『古事記』開化天皇条

魏への使者は通常、大夫やそれに次ぐ身分であり、倭国内では高い地位の人間であると推測されます。
邪馬台国配下の国の王として、丹波(兵庫県東部)の王が選ばれることは適切だと言えます。

魏志で登場回数が多く立場的にもやや格上そうな梨迹臣命(難升米)は、日本書紀・古事記に登場しません。※日本書紀に登場する難斗米は、注釈にある魏志からの引用文であり、本文では登場しません。
対して、格下の由碁理(都巿牛利)が古事記に登場するという点には違和感があります。

九州説の場合、なぜ魏と反対方向の丹波(および滋賀)からわざわざ使者を出したのか説明が必要です。

第9代開化天皇は紀元前の時代の天皇とされています(諸説あり)。
第9代開化天皇の妃の父と言うことは、由碁理も紀元前の人物と言うことになり、景初二年(西暦238年)の記述と一致しません。

田道間守説

日本書紀に登場する田道間守(たじまもり/たぢまもり、古事記では「多遅摩毛理」)とする説です。
日本書紀と古事記で細かい部分は異なりますが、大まかな内容は同じで、田道間守は垂仁天皇の命を受けて橘を求めて常世国に行った人物です。
常世国は中国のことを指しているとする考えが主流です。

日本書紀では、垂仁天皇90年(西暦61年)に派遣されたとされています。
卑弥呼や邪馬台国とは時代が合いません。

委(倭)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた西暦57年に近く、どちらかと言えば田道間守は後漢時代の使者か?という見方もあります。

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