『梁書』は502~557年の中国のことを記述している史料ですが、邪馬台国(西暦200年代)の記述もあります。
梁書で追加された倭の情報は、西暦200年代のことか、西暦500年代のことか、が議論されています。
200年代のことを記述しているのであれば、梁書は邪馬台国論争の史料として使えることになります。
梁書とは
本紀6巻・列伝50巻からなる、中国南朝の梁国(502~557年)についての歴史書です。
列伝第四十八・諸夷には中国周辺の国について記述されており、その中には倭に関する記述もあります。
倭に関する部分は、一般的に”梁書倭伝”と呼ばれています。
梁書の倭に関する記述は誤字・脱字と思われる部分があります。
さらに、梁国の存在した502~557年は邪馬台国の頃からは250~300年ほど時代が後であることから、邪馬台国論争においては本やネット記事(個人ブログ等含)だけでなく、学会の論文等でも、梁書はそもそも参照されないことも多いことが特徴です。
資料データ
著者 | 姚思廉 |
成立年 | 629年 |
姚思廉は557~637年の唐初の歴史家。
父の姚察が梁国と陳国の二史を著したが完成できず、姚思廉が後を継いで完成させました。
姚思廉は『漢書』を習っていたため、漢書の影響を受けている可能性が高いです。
出典
原文を読む@中國哲學書電子化計劃 (2024.01.14 閲覧確認)
信憑性
- 倭に関する記述に関しては、魏志倭人伝の内容をほぼそのまま引用している
- 官撰の正史ではなく私撰の史書的な扱いである
- 隋・唐時代の倭に関した伝聞と思われるものを追記しているが、梁時代のことは全く記述がない
- 誤字・脱字と思わる箇所が存在している
梁書自体の内容は良いとされながらも、官撰の正史ではなく私撰の史書的な扱いであるため、懐疑的な意見も一定数存在します。
倭に関する記述に関しては、魏志倭人伝の内容をほぼそのまま引用しているようです。
一部に隋・唐時代の倭に関した伝聞と思われるものを追記しているものの、梁時代のことは全く記述がありません。
誤字・脱字と思わる箇所が存在しているため、倭に関する部分に関しての信憑性は怪しいところがあります。
内容
ここからは、梁書の中でも倭に関する記述のみ抜粋してご紹介します。
朝鮮半島
梁書を引用する場合、大抵は倭伝のみを参照します。
しかし、重要ではないものの朝鮮半島・百済についての伝の中に、倭に少し触れている部分があります(以下の太字部)。
倭国に直接関係する話ではないため、当ページでは原文の紹介のみにとどめておきます。
號所治城曰固麻,謂邑曰簷魯,如中國之言郡縣也。其國有二十二簷魯,皆以子弟宗族分據之。其人形長,衣服凈潔。其國近倭,頗有文身者。今言語服章略與高驪同,行不張拱、拜不申足則異。呼帽曰冠,襦曰復衫,褲曰褌。其言參諸夏,亦秦、韓之遺俗云。中大通六年、大同七年,累遣使獻方物;并請《涅盤》等經義、《毛詩》博士,並工匠、畫師等,敕並給之。太清三年,不知京師寇賊,猶遣使貢獻;既至,見城闕荒毀,並號慟涕泣。侯景怒,囚執之,及景平,方得還國。
梁書
ここはあくまで百済の話であるため、この後しばらくは倭に触れることなく新羅や馬韓など朝鮮半島に関する話が進みます。
下図は1~4世紀頃の朝鮮半島の勢力図(ハイパー世界史用語集 より引用)です。
倭国
倭人と大陸の繋がり
以下は梁書に記載されていますが、魏志倭人伝にはない一文です。
倭者自云太伯之後俗皆文身
『梁書』
魏志倭人伝に記述がない理由は?
太伯とは紀元前1100年前後の頃の人物です。
中国・殷時代の周国の王族でありながら、諸事情あって弟に周の跡継ぎの座を譲り、自身は呉を建国したと言われています。
周の跡継ぎを譲った後は、当時蛮族の証とされていた刺青を全身に施したとされ、倭人の入れ墨文化の元となったとされています。
人物 | 概略 | 生没年 |
---|---|---|
太伯 | 周国の王族 | 詳細不明 紀元前1100年前後の人物とされる |
陳寿 | 魏志倭人伝の著者 | 233~297年とされる |
姚思廉 | 梁書の著者 | 557~637年 |
太伯は魏志倭人伝の著者・陳寿より前の時代の人物であるため、陳寿は魏志倭人伝にこの話を記載することは年代的には可能です。
陳寿が魏志倭人伝に太伯の話を採用しなかった理由は不明です。
「梁国(502~557年)時代から倭人が太伯の末裔だと言い始めた」「陳寿が重要だと考えなかった」「魏に関連しない」などの候補があります。
陳寿は採用したが、後年に魏志を書写した際に意図的または脱文で消された可能性も否定できません。
邪馬台国までの行程
この部分は、基本的に魏志倭人伝の内容を要約したものになっています。
そのため、各文の内容に関しては魏志倭人伝の記事を参照していただければと思います。
去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絕遠。
『梁書』
從帶方至倭、循海水行、歷韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海;
海闊千餘里、名瀚海、至一支國;
又度一海千餘里、名未盧國;
又東南陸行五百里、至伊都國;
又東南行百里、至奴國;
又東行百里、至不彌國;
又南水行二十日、至投馬國;
又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國、即倭王所居。
其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。
しかし、いくつか魏志倭人伝と異なる部分が存在しており、議論の的になっています。
- 対馬国がない理由は?
-
対馬国(対海国)がなく、いきなり一支国(壱岐島)に辿り着く旅程となっています。
朝鮮半島→対馬→壱岐という旅程に関しては、どの説でも大抵同じであるため、これは単なる脱文? - 付け足された海闊
-
瀚海と呼ばれる一支国近辺の海について、海が広いという一文が付け足されています。
※天空海闊という四字熟語の意味は大空と海が広々としていることから、転じて、度量が大きいこと。よって海闊とは広い海という解釈が一般的。 - 未盧國は正しいか?
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次に、魏志倭人伝でいう末盧国が、未盧國になっています。
ぱっと見分かりにくいですが、上が長い”末”(すえ、まつ)ではなく、下が長い未来の”未(み)”になっています。
他の史料では末であるため、これは単なる誤記? - 伊都国に到ではなく至を使用している理由は?
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議論の余地がある点としては、伊都国に対して「到」ではなく「至」という字を使用している部分が挙げられます。
魏志倭人伝では、伊都国と狗邪韓国の2カ所だけ「到」が使用されています。
このことから使者は伊都国までしか行っていないとする説があります。
対して、梁書ではこの使い分けがありません。 - 陸行一月日至祁馬臺國
-
魏志倭人伝の内容と異なる記述に「陸行一月日至祁馬臺國」があります。
まず、陸行一月の後に”日”という1文字が入っています。
これは衍字(えんじ、語句の中に間違って入った不要の字のこと)と考えることが一般的です。
月日を”つきひ”と捉えて、一月ではなく長い期間という意味で捉えるとする説もあります。次に、「祁馬臺」という国名が正しいかどうかという点。
祁という字は、日本語の訓読みでは”キ”であり、おおいに・さかんに、と言った意味を持ちます。
例えば祁寒(きかん、厳しい寒さのこと)などです。
よってこの字を正しいとする説では”キマタイ”という国名になります。
ただしこの説を唱える人は現状、個人・学会問わずほぼおらず、邪馬臺の誤字であるという認識でほぼ一致している状況です。
動植物
民種禾稻籥麻,蠶桑織績。
『梁書』
有姜、桂、橘、椒、蘇,出黑雉、真珠、青玉。
有獸如牛,名山鼠;
又有大蛇吞此獸。蛇皮堅不可斫,其上有孔,乍開乍閉,時或有光,射之中,蛇則死矣。
物產略與儋耳、朱崖同。地溫暖,風俗不淫。男女皆露紒。
この部分も基本的に魏志倭人伝の倭国の内容を踏襲しています。
ただし内容が簡略化されている一方で、後年の追加記述もいくつかあります。
後年の追加された大蛇の信憑性はどの程度?
ヤマタノオロチ(八岐大蛇)伝説?
梁書の成立年代的に遣隋使・遣唐使の話が入っていてもおかしくなく、倭人から(使節が)聞いた情報を後年に追加しているものと思われます。
ただし頭上に孔(穴or眼)がある大蛇の話などは伝説に近い内容であり、モデルがあっても実在はしていないとする意見が大半です。
日本では”牛に似た獣”を食べられるほどの大きさを持つ蛇は発見例(証拠)がありません。
昭和・平成でも5m級の蛇の目撃例が出るなどしているものの、証拠がないため大蛇伝説ということになっています。
東南アジアなどでは21世紀でも人食い蛇が確認されていて、蛇に丸のみされた死亡例もあります。
現在日本では絶滅しているだけで、当時の日本に大蛇が存在していても不思議ではありません。
風土
富貴者以錦繡雜采為帽,似中國胡公頭。食飲用籩豆。
『梁書』
其死,有棺無槨,封土作塚。人性皆嗜酒。
俗不知正歲,多壽考,多至八九十,或至百歲。
其俗女多男少,貴者至四五妻,賤者猶兩三妻。
婦人無淫妒。無盜竊,少諍訟。若犯法,輕者沒其妻子,重則滅其宗族。
この部分も基本的に魏志倭人伝の倭国の内容を踏襲しているうえに、付け足しや記述の違いなどはほとんどありません。
倭国の乱
漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。
『梁書』
侏儒国・黒歯国・裸国
其南有侏儒國,人長三四尺。又南黑齒國、裸國,去倭四千餘里,船行可一年至。
『梁書』
又西南萬里有海人,身黑眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之。
侏儒国・黒歯国・裸国は魏志倭人伝の記述をそのまま使用しています。
ここで触れておきたいのが、隋・唐時代の情報として、西南方向に海人(の国?)が追加されている点です。
西南方向に追加の人種(国?)がある
身は黒くということから、住んでいたのはいわゆる黒人のような肌が黒っぽい人種と思われます(語彙に関して、決して差別意図ではありません)。
「其肉美行者或射而食之」の解釈は少し意見が割れます。
(船で移動していると食料に困ることもあるので)通りすがりの島で島民を食人した説や、猿(または孤島で生き残っていた猿人)だったとする説などがあります。
文身国
文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋為緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。
『梁書』
倭の東北方向にも国があった?
文身国も魏志倭人伝の中には出てきません。
ここでの注意点として、倭国から東北に七千里という記述が挙げられます。
先に出てきた侏儒国・黒歯国・裸国と海人は倭の南にあります。
距離と方角に間違いがある可能性は当然ありますが、倭国の比定地においては南だけではなく、東北方向も意識する必要があります。
ただし、ここで記述されている文身国は、邪馬台国と同時代に存在したとは限りません。
魏志倭人伝にはなく、梁書で追加されている内容であるため、邪馬台国の時代以降にできた国の話である可能性もあり得ます。
七千里という距離についても、文身国が邪馬台国と同時代に存在したかどうかで少し変わってしまいます。
魏志倭人伝の距離と同じ計測方法とする考えと、隋・唐時代の計測方法とする考えがあるためです。
時代 | 周~前漢 | 新・後漢 | 魏 | 隋 | 唐 |
---|---|---|---|---|---|
分(cm) | – | 0.2304 | 0.2412 | 0.2951 | 0.311 |
寸(cm) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
尺(cm) | 22.5 | 23.04 | 24.12 | 29.51 | 31.1 |
丈(m) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
歩(m) | 1.35 | 6尺 1.3824 | 6尺 1.4472 | 6尺 1.7706 | 5尺 1.555 |
里(m) | 405 | 300歩 414.72 | 300歩 434.16 | 300歩 531.18 | 360歩 559.8 |
「齎」という字の意味をどう解釈するか
齎という字は”贈り物”という意味と”持ち物”という意味があるため、「行客不齎糧」をどう訳すかで、意味合いが変わります。
贈り物と捉えて「行客に糧を齎えず」と訳せば、客をもてなさない集団で悪い印象になります。
この場合、直前の「物豊而賤」の解釈も重要です。
周辺国(倭国?)の配下にあり、鉱物は交易ではなく搾取されていて、文身国自体は貧しいと解釈できます。
一方、水銀など物品は豊かだが、土壌的に稲等が育ちにくく、食料は貧しいと解釈することもできます。
いずれにしても、客をもてなさないのではなく、もてなす余力がないと考えるべきでしょう。
逆に持ち物と捉えて「行客齎糧いらず」と訳すこともできます。
(齎糧-せいりょう-とは、旅の携行食のこと)
物が豊かであるため食べ物に困らない、と解釈できなくもないです。
ただし、不という字は多くの場合、動詞を打ち消す使い方をします。
名詞の齎糧を打ち消すのではなく、動詞の”与える”を打ち消す訳し方が自然のような気がします。
文身国は水銀と関連する
文身国は水銀を大量に保有していることから、水銀鉱山に近い場所、あるいは水銀鉱山近くの村と容易に交易できる程度の距離にあったと推測されます。
日本国内の水銀鉱山は、奈良県を中心に三重・和歌山あたりの一帯(10ヶ所ほど)や北海道(15ヶ所ほど)に集中して存在します。
下図はあくまで代表的な日本の水銀鉱山の分布図であり、掘り尽くすなどして閉山したものも含めると数はさらに増えます。
例えば、関東圏に水銀鉱山が無いように見えますが、埼玉・静岡などにも小規模ながら水銀鉱山自体は存在します。
文身国は城がない
先述の通り、ここで記述されている文身国は邪馬台国と同時代の国とは限りません。
梁書の成立年代等から考えると、隋や唐の時代の話が混じっていても不思議ではありません。
文身国 奈良説
遣隋使・遣唐使を派遣していた頃の日本は飛鳥~奈良時代であり、国の中心は奈良県辺りという認識は、どんな学説を唱えている人でもほぼ共通認識となっています。
そうなると、城が無いことから文身国を奈良県辺りと比定する説が出てきます。
当時、九州~瀬戸内にかけては朝鮮半島との戦いに備えて、東北地方には蝦夷との戦いに備えて多くの城が築かれていましたが、中央の奈良近辺は城が少なかったようです。
この説では、奈良(文身国)は倭国の東北に位置することになります。
当時の中国でも倭国の中央は奈良と認識していた可能性が高いです。
後付けの記述であるならば「倭国 = 奈良近辺」と記述するため、矛盾が生じる気がします。
文身国 蝦夷説
日本書紀には蝦夷について「身を文けて(つまり文身=入れ墨)」との記述があることから、文身国の有力な説は蝦夷領土説となっています。
ただし蝦夷領土は、北海道のみ、東北地方まで、関東圏までなど諸説ある状況です。
文身国蝦夷説ではあまりにも比定地が広く、絞り込むためには蝦夷領土の範囲についての議論が必要になります。
ただし蝦夷説に関しては、倭国九州説でも倭国畿内説でも蝦夷領土は倭国の東北方向になってしまうため、倭国の比定材料としては弱いです。
大漢国
大漢國,在文身國東五千餘里。無兵戈,不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。
『梁書』
文身国を蝦夷領土であった関東や東北地方と比定すると、そこから東に五千里という解釈が少し厳しくなります。
五千里という距離をどの程度と採るかは議論の余地があるものの、いずれにしても関東や東北地方の真東に陸地はありません。
逆に、文身国を奈良や北海道と考えると、東にも陸が存在するため説得力が増します。
ただし、北海道と考える場合の文身国比定地は西側(道南~道央)としないと厳しいです。
大漢國の後さらに扶桑国の話が続きますが、扶桑国からは突然記述方法が変わり、扶桑国から来た慧深という人物の話として記述されます。
そのため扶桑国の信憑性は怪しく、実在したかどうかの論争がありますが、邪馬台国論争から離れてしまうためここでは省略します。
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