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台与は何者か?(壹與/臺與/台与)

台与は、邪馬台国の女王だったとされる人物です。しかし、実在したかどうかを含め、どんな人物だったのかは詳しく分かっていません。このページでは、台与について分かっていることや、いろいろな人物比定説を紹介します。

台与は、邪馬台国の女王だったとされる人物です。
しかし、実在したかどうかを含め、どんな人物だったのかは詳しく分かっていません。

このページでは、台与について分かっていることや、いろいろな人物比定説を紹介します。

目次

「台与」の読み方

そもそも台与の漢字は、歴史書によって微妙に異なる漢字が使われています。
そのため、異なる漢字の人物たちが同一人物かどうかという議論から必要になってきます。

一般論では全て同一人物を指しており、「台与」の使用頻度が高いです。

注意点

このページでは特に意図しない限り、使用頻度が高い「台与」を用います。

台与の字(カッコ内は新字体)読み方史料
壹與(壱与)いよ(ゐよ)『三国志』魏書東夷伝
臺與(台与)とよ『梁書』諸夷伝
『北史』東夷伝
『翰苑』
『通典』
卑弥呼の漢字の違い

研究者間では、壹與(壱与)は「いよ」の読み方でほぼ異論はありません。
一方で、臺與(台与)は「とよ」と読ませることが通説ですが、臺を”と”と発音する根拠が薄く、議論の余地があるとされています。

臺と台はイコールではない

壹と壱がイコールであることは事実です。
これは単に旧字体「壹」と新字体「壱」と言うだけで、同じ漢字を指します。
よって、読み方も「いよ」が通説となっています。

一方で、臺と台は別の漢字です。
常用漢字など現代日本には漢字制限があるため、臺の代替字として台が当てはめられたにすぎません。

注意点

壹(旧)と壱(新)は新旧字体の関係性で、イコール扱いです。
一方で台という字は、臺という字の代替文字として採用されただけで、新旧字体の関係ではありません。

臺と言う字は中国国内でも時代や地域によって読み方が異なります。
「ダ」「ダイ」が多いものの、「ト」「ド」や「タイ」とも読めるようです。
そのため、臺與(台与)は「とよ」「ダヨ」など研究者によって読み方に差があり、自説に都合の良い読み方となる傾向があります。

列伝

魏志倭人伝による列伝

魏志倭人伝の倭に関する原文
魏志倭人伝の倭に関する原文

魏志倭人伝とは、三国志魏志の中の1書である東夷伝のことを指しています。
詳しくは魏志倭人伝についての解説記事を参照してください。

その東夷伝に記述された内容は以下の通りです。

卑弥呼以死、大作冢。径百余歩。殉葬者百余人。
更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。
政等以檄告諭壹與。
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、献上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
メモ

『魏志倭人伝』では壹與と記述されています。新字体では「壱与」になります。

翰苑による列伝

『翰苑』は唐時代の史料で、さらに後年に注釈がつけられています。
この注釈部分に、台与についての記述があります。

後漢書曰 (…中略…) 復立卑弥呼宗女臺與 年十三為王 國中遂定

『翰苑』

ただしこの部分については、後漢書曰くとしながらも、後漢書の原文には台与についての記述はありません。
前後の文は後漢書とほぼ同じです。
よって、『翰苑』の注釈は魏志倭人伝の内容も参照しているとする見方もあります。

メモ

『翰苑』では臺與と記述されています。新字体では「台与」になります。

梁書・北史による列伝

『梁書』は502~557年の中国のことを記述している史料で、邪馬台国の時代からは少し遠い時代のものです。
魏志倭人伝を流用したと思われる記述がありますが、魏志倭人伝とは微妙に内容が異なっています。
詳しくは梁書倭伝についての解説記事を参照してください。

その梁書倭伝に記述された内容は以下の通りです。
なお、『北史』にも梁書倭伝と同じ文が掲載されています。

正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。

『梁書』『北史』
メモ

『梁書倭伝』『北史倭国伝』では臺與と記述されています。新字体では「台与」になります。

通典による列伝

『通典』は唐時代の中国の史料で、倭についての記載もあります。
ただし、少なくとも倭に関する記述は過去の史料(魏志倭人伝?梁書?北史?)を参照しているようで、オリジナル要素は薄くなっています。

齊王正始中,卑彌呼死,立其宗女臺輿為王。

『通典』
メモ

『通典』では臺與と記述されています。新字体では「台与」になります。

卑弥呼と台与の関係性

ここまでの内容から、台与は卑弥呼の”宗女”ということになっています。
宗女が何を指すかは分かっていませんが、親族(同じ血筋)の女性という意味と解釈されることが多いです。

ポイント

卑弥呼と台与は親族関係であり、親子関係とは限りません。

宗女が親族と解釈される理由は、子だと明記されていないことに加えて、宗という字の意味も関連します。

現代日本では、伝統芸能や古武道などにおいて、家元のことを宗家と表記することがあります。
もともと「宗家」は氏族の中心で、唯一の直系血筋の家系を指すとされています。
つまり家元・宗家は、ある一族(一門)における正嫡の家系・当主・本家のことを指しています。

同じように、台与は卑弥呼が属した一族の分家のようなところの出身ではないか?と解釈されるのです。

台与は何者か?

台与は何者だったのでしょうか?
いろいろな説があるのでご紹介します。

万幡豊秋津師比売命説

台与は万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと、萬幡豊秋津師比売命)とする説です。
卑弥呼を天照大神に比定する前提となっています。

万幡豊秋津師比売命は、天照大神の子である天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだとされています。

万幡豊秋津師比売命は、天照大神の子である天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだとされています。
万幡豊秋津師比売命と天照大神の関係

台与(万幡豊秋津師比売命)は卑弥呼(天照大神)の親族だが子ではないことになります。
子ではなく宗女という記述にも一致します。

また、名前の一部に豊(とよ)という読み方があり、台与(とよ)と重なる点も大きな特徴です。

魏志倭人伝の「壹與(壱与)」は間違いということになります。
つまり、魏志倭人伝には誤記があることを認める形です。

万幡豊秋津師比売命は”織物の神”として信仰されています。
魏志倭人伝によれば、台与は”異文雑錦”を魏に献上しており、これは珍しい模様の絹織物とする説があります。
異文雑錦が何を指すかは分かっていませんが、絹織物とする解釈では台与 = ”織物の神”の関連性が高まります。

天豊姫(竹野媛)説

台与は天豊姫またの名を竹野媛(タカノヒメ、竹野比売)とする説です
卑弥呼を宇那比姫命に比定する前提となっています。
竹野媛は、第9代の開化天皇の皇后に当たるとされます。
桂川光和氏が唱えている説です。

国宝「海部氏系図」の『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記(勘注系図)』を主軸にした説です。
「海部氏系図」は家系図で、『籠名神社祝部氏係図(本系図)』と勘注系図の2巻構成の史料です。

現存する「本系図」は9世紀頃の内容とされる一方で、「勘注系図」は江戸時代に作られた写本である他、「本系図」にない記載のない系譜に言及する部分があるなど、史料の信憑性は怪しいところがあります。

豊玉姫説

台与は日本書紀や古事記に登場する豊玉姫とする説です。
豊玉姫は、神武天皇(初代天皇)の父方の祖母、母方の伯母にあたります。

豊玉姫と神武天皇の関係
豊玉姫と神武天皇の関係

卑弥呼は少なくとも70歳以上で没したと仮定します。
すると、数年後に女王となった台与は13歳ですから、その年齢差は60才以上と考えられます。

『梁書』の記述の読み方次第では、正始年間(西暦240~249年)に卑弥呼→男王→台与→男王と頻繁に王が代わっていると考えることもできます。
つまり台与は短命の可能性があるとする考えです。

正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。

『梁書』

豊玉姫命は結婚して子を出産した後すぐに、夫である火折尊(山幸彦)のもとを去っています。
これは短命を表しているのではないか、という考えで石原洋三郎氏の説です。

卑弥呼→男王→台与→男王と代わったことすべてが正始年間(西暦240~249年)に起こったのかは疑問です。
正始年間(西暦240~249年)は卑弥呼が死んだことのみにかかっていて、男王→台与→男王と代わったことは正始年間より後と考えることもできます。

豊鍬入姫説

台与は崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命とする説です。
卑弥呼を箸墓古墳の被葬者である倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と比定する前提となっています。
天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が台与に当たるとする考えです。

卑弥呼と箸墓古墳の関係性は不明瞭です。
時代が異なる説や古墳規模が大きすぎる説など、関係性を疑問視する声もあります。

豊姫説

台与は神功皇后の妹である豊姫とする説です。

肥前国風土記には、欽明天皇の25年(西暦564年)の話に豊姫と言う名が登場します。
さらに「淀姫は神功皇后の妹なり。」と記述がありますが、淀姫の別名が豊姫です。

風土記云人皇卅代欽明天皇廾五年甲申
冬十一月朔日甲子日肥前国佐嘉郡与止姫神在鎮座一名豊姫一名淀姫
乾元二年記云淀姫大明神者八幡宗廟之叔母神功皇后之妹也

『肥前国風土記』神名帳頭注

『肥前国風土記』神名帳頭注
原文を読む@国書データベース

『肥前国風土記』の成立時代が邪馬台国より後過ぎます。
よって日本書紀や古事記などを神格化する目的など、忖度やでっち上げが含まれる可能性を否定できず、史料の信憑性は怪しいです。

卑弥呼と台与の一体説

『日本書紀』では神功皇后の在位期間が卑弥呼と台与の両方を含む年代に設定されています。
よって、『日本書紀』の編纂者は卑弥呼と台与をどちらも神功皇后のことだと考えていたとする説です。

また、天岩戸伝説において、岩戸隠れ前の天照大神を卑弥呼、岩戸隠れ後に出てきた天照大神が台与とする説もあります。

固有名詞ではなく「(王として)働く女性」という意味とする説

朝鮮語での「壹(臺)與」という漢字の意味から、台与は何者かを推測する説です。

「壹」はハングルでは「일(読みはil)」となります。
일は現代日本語に直訳すると”仕事”です。

「臺」はハングルでは「이(読みはi)」となります。 
이は韓国人の姓(苗字)の一つである”李(ri)”に当てはまります。

「與」はハングルでは「여(読みはyeo)」となります。
여は現代日本語に直訳すると”女性”です。

この説では壹與は正しいと判断しています。
壹與は固有名詞ではなく、単に「(王として)働く女性」という意味で使われたとする説です。

中国の史書に朝鮮半島の漢字の意味を持ち込む理由がありません。
中国内での漢字の意味を使えば良いはずです。

邪馬台国関連人物

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