邪馬台国畿内説にて、卑弥呼の墓の候補として挙がる箸墓古墳。
はたしてどんな遺跡なのでしょう?
畿内説の批評を交えて解説します。
基本データ
場所 | 奈良県桜井市 |
被葬者 | 不明 |
形状 | 前方後円墳 |
築造時期 | 3世紀中頃から後半とされる |
場所
奈良県桜井市にあり、纒向古墳群(まきむくこふんぐん)に属します。
奈良盆地・大和平野の東端にあり、北と西には広大な平野が、南にも少し平野があります。
一方で、すぐ東には三輪山や穴師山が存在しています。
近くに平野があるため、周囲に巨大な集落を抱えることができたと推測できます。
被葬者
箸墓古墳は宮内庁が陵墓として管理しており、研究者でも自由に立ち入りできません。
そのため箸墓古墳の調査は進んでおらず、考古学的には被葬者を明らかにできていません。
被葬者は倭迹迹日百襲姫命
宮内庁より、第7代孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であると治定されています。
考古学的には不明ですが、公式見解としては倭迹迹日百襲姫命が被葬者になっています。
畿内説の1つである「卑弥呼 = 倭迹迹日百襲姫命」説の裏付けになります。
公式としては卑弥呼ではなく倭迹迹日百襲姫命の墓です。
畿内説の中には「卑弥呼 = 神功皇后」説がありますが、箸墓古墳は神功皇后の墓でもありません。
殉葬跡が無い
魏志倭人伝では100人ほどの殉葬者がいたことになっています。
しかし現在まで、箸墓古墳での殉葬跡は見つかっていません。
一方で、先述の通り古墳の調査は進んでいないため、まだ見つかっていないだけという可能性もあり得ます。
卑弥呼以死、大作冢。径百余歩。殉葬者百余人。
『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
墳形・規模
形状 | 前方後円墳 |
墳長 | 約280m(計測により異なるが、どの計測でもほぼ270~280mで収まる) ★後円部 ┗直径 約150m ┗高さ 約30m ★前方部 ┗前面幅 約130m ┗高さ 約16m |
体積 | 約37万立方メートル |
後円部は四段築成。
さらに四段築成の上に小円丘が載っている、五段築成とする説もあります。
段は被葬者の格付けを表すとする説があります。
天皇陵古墳は三段築成が多いことから、その説では天皇(かそれ以上)の規模に当たります。
竪穴式石室が有る可能性が高い
墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっています。
このことは、竪穴式石室が作られている可能性が高いことを示しています。
これは、魏志倭人伝の「棺はあるが槨が無い」とは異なる結果です。
ただし魏志倭人伝の記述は、一般人に対する埋葬の話であり、有力者の墓には当てはまらないとする考えが主流です。
其死有棺無槨封土作冢
『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
槨とは、棺を囲う箱のこと。棺が土に触れないようにする施設です。
規模が大きい
箸墓古墳の全長は約280mで、大阪府・堺市調べでは、箸墓古墳は日本で11番目の大きさの古墳です。
一方で、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の墓はそこまで大きくないことになっています。
短里説や長里説などがありますが、魏時代は一応1歩が1.4m計算です。
したがって、魏志倭人伝の卑弥呼の墓「径百余歩」は直径140~160mほどと推測されます。
(「余」が数歩なのか数十歩なのかの程度で変わりますが、150m前後とする説が通説です)
径百余歩。殉葬者百余人。
『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
時代 | 周~前漢 | 新・後漢 | 魏 | 隋 | 唐 |
---|---|---|---|---|---|
分(cm) | – | 0.2304 | 0.2412 | 0.2951 | 0.311 |
寸(cm) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
尺(cm) | 22.5 | 23.04 | 24.12 | 29.51 | 31.1 |
丈(m) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
歩(m) | 1.35 | 6尺 1.3824 | 6尺 1.4472 | 6尺 1.7706 | 5尺 1.555 |
里(m) | 405 | 300歩 414.72 | 300歩 434.16 | 300歩 531.18 | 360歩 559.8 |
魏志倭人伝の内容からすると、箸墓古墳の全長は確実に大きすぎます。
前方後円墳の後円部分が約150mであるため、「径百余歩」は古墳全体の大きさではなく、後円部分の直径であるとする説もあります。
この場合、なぜ後円部分の大きさだけを記録として残したのか、という点は説明が必要になってきます。
魏志倭人伝の内容が後円部分の直径であるという考えであれば、相違なさそうです。
ただし、なぜ後円部分の大きさだけを記録として採用したのかは説明が必要になります。
箸墓古墳の全長は、魏志倭人伝の内容から考えると大きすぎる?
また、一里を約76mとする短里説で計算する場合、卑弥呼の墓の大きさは直径30mほどになります。
やはりこれでは箸墓古墳は大きすぎます。
築造時期
築造時期は、3世紀中頃から後半とされています。
出土した土器から、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定しています。
ただし先述の通り、箸墓古墳は宮内庁が陵墓として管理していて、研究者でも自由に立ち入りできないこともあって、年代測定には古墳から出土したものを使用できていません。
土器は古墳のすぐ近くにある、箸中大池から出土したものを使用したとされています。
よって、土器の年代が埋葬年代と一致するとは限りません。
また炭素14年代測定法(放射性炭素年代測定)は、試料の選択や測定時間などによって信頼性が変わり、誤差が出る可能性があることが知られています。
卑弥呼とは年代が合わない
仮に築造時期が280~300年で正しかったとしても、卑弥呼は240~249年に没しているとされており、卑弥呼の年代とは合いません。
正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命
『梁書』卷第54「列傳」第48 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
中国元号 | 西暦 |
---|---|
景初 | 237~239年 |
正始 | 240~249年 |
泰始 | 265~274年 |
魏志倭人伝では、卑弥呼が正始中に亡くなったという明記はありません。
そのため卑弥呼は280~300年に亡くなったと説明することは可能ですが、なぜ梁書では正始中と明記したのか説明が必要です。
梁書によれば、卑弥呼は中国の元号で言う正始中(240~249年)に亡くなっているはずです。
280~300年とは年代が合いません。
その他
岡山県・吉備地方との繋がり
前方部で見つかった土器は地元(奈良県)の土で出来ています。
一方で、後円部で見つかった土器は岡山県・吉備地方の土に似ているとする研究結果が出ています。
出典:
宮内庁書陵部 論文『書陵部紀要』第69号〔陵墓篇〕 平成29年度
奥田 尚・著
『倭迹迹日百襲姫命 大市墓出土の祭祀に関係する土製品の砂礫構成と砂礫の産地』
上記を理由に、「魏志倭人伝の記録が直径である理由として、築造当初は円墳で、前方部は後付けされた」という説が出たことがあります。
しかし、他の研究によって築造当初から前方後円墳であることが分かっています。
周壕からは馬具
周壕からは馬具が出土しています。
ただし、周濠が機能停止して埋没し始めた後に堆積した土層からの出土品であるため、古墳の築造年代とは無関係でです。
よって、魏志倭人伝の「倭には馬がいない」という記述に反するという根拠にはなり得ません。
其地無牛馬虎豹羊鵲。
『三国志』巻30『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
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